かえるの想い。


 じりじりと、灼熱の太陽がアスファルトを照りつける、七月下旬。青々しい稲が、田に張られた水と共にきらきらと輝く田園風景が四方に広がる中を、自転車でだらだらと走る、一人の女子高生がいた。
「あー暑い、もう嫌だ……帰りたい」
 白いワイシャツに朱色のリボン、そして丈を詰めたスカートに紺のハイソックスと、いたって普通の女子高生、竹下千草は、長い髪を後ろでまとめ上げている首筋に汗をにじませながら、そうつぶやく。
「何で夏休みに学校に行かなきゃ行けないのよ……まぁ、あたしが赤点取ったからいけないんだけどさー……」

 雲もなく、入道雲が一つ出て来たら絵になる青く綺麗な空の下、独り言をブツブツとつぶやきながら、眉間に皺を寄せ、千草はペダルをこいでいた。

「でも今回もギリギリ全部まぬがれるはずだったのに! なのに! 漢字、間違えただけで補習って!」
 叫んだ後に、はぁ。と一つ溜息をつく。怒って暑さが増したような気がした千草は、うんざりしながら、だらんと頭を下げ、視線を地面へ落とした。
「うわぁ!」
 しかし突然、自分の自転車の前に、何かが飛び出してきたのを視界の隅にとらえると、千草は慌てて顔を上げ、ハンドルを切った。
 瞬時に目に入ったのは、茶色と黄土色の混じった、大きなかえるだった。緑のアマガエルではなく、茶色の大きなウシガエルの類だ。
 急いでハンドルを切った千草だが、かえるとの距離がほとんどなかった為、残念ながらそのままかえるの低い泣き声と共に、自転車はかえるの上を走った。
(うわあぁ……かえるひいちゃったよ!)
 後輪でまた踏み潰す前に、千草は慌ててブレーキをかけ、自転車を止めながら片足をつこうとする。が、突然、ボン! という音と共に、白い煙が千草の足元から立ち上った。そして自転車は千草共々少し浮き上がり、不安定な物の上にいるかの様にバランスを崩して地面に倒れそうになる。
 千草は慌てて自転車から手を離し、わわっ! と、つんのめりながらも片足を地面に着けると、二、三歩歩いて、少し離れた所で体勢を整えた。
(な、何……?)
 そのほんの一瞬の出来事に、千草は戸惑いながらも、恐る恐る背後を振り向き、今、何が起こったのかをその目で確かめる。
「いってー……」
 そこには、人がいた。
 背に、横転して逆さになっている自転車をのせて、四つん這いになっている体格のいい、男がいた……。
 その男は肩位あると思われる黒い髪を、丸い半透明の物が連なった、髪ゴムと思われる物でまとめ上げている後頭部に手を当て、痛みにうめいていた。

「…………」
 千草は唖然として、その男を見つめる。
 白いTシャツに、ベージュの着古した感じの楽そうなチノパンを履き、足元は黒いビーチサンダルを履いたその男は、外見はどこにでもいそうな普通の人だった。
 男は、頭をさすりながら、ゆっくりと顔を上げる。
「おい、人の事ひいといて、詫びの一つもねぇのか」
 ぶっきらぼうで偉そうなその口調と、少し低めのその声は、全体的に整ってはいるが、仏頂面なその顔にとても合っていた。
 顔の造りがとても良かった為、一瞬その男に見惚れてしまった千草は、はっと我に返り、改めて、今度は周りの状況と共に、目の前にいる男を見つめた。
 この数十秒の間に変わったのは、自分がひいたかえるが、人間になった事だけ……。
 千草の頬に、額からにじみ出た汗がつたう。
「っ……」
「あ?」
 ぎゅっと身体の両脇にある手を握り締め、俯いた千草を、その男は訝しげに眉をひそめて見つめた。
「う、うわあああ!」
 千草はその男を、ドンッ! と、思いっきり突き飛ばした。
「うおっ!」
 そして、その男がアスファルトの地面に倒れこむと、落ちている鞄をつかみ、急いで自転車を地面に立たせ、ペダルに足をかけ、千草は一目散にその場を逃げ出した。
「いってぇ……あ! 待てこらてめぇ! 逃げんじゃねぇ!」
 必死の形相で立ちこぎし、その場から逃げ去る千草の後姿を、男は身体を起こしてから見ると、片手を振り上げながら、怒鳴り声を上げていた。

              二
 暑い中、全速力で自転車をこいで来た為、よろめきながら教室に着いた千草は、息を整えつつ、補習が始まるのを待った。そして始まりの、聞き慣れた予鈴が鳴る。
 静かな教室には、淡々と語る教師の声、そして黒板に走らせるチョークの音が響いていた。
 できるかぎり開け放たれた窓の外から、相変わらず、これでもかと言う位鳴き続けている蝉の声、そして校庭で練習している運動部の張り上げる声が入ってくる。
 教室の真ん中後方の席に座っている千草は、ふわっと頬をなでた心地よい風に、黒板から視線を窓の外へ移した。少し遠くの校庭にいる運動部を見つめ、さっきのあの出来事を思い出す。
(あれは、何だったんだろう……)
 肘を軽くつき、くるくるとシャーペンを回す手元を見つめる。
 あれは夢ではない。あの時、大量にかいた汗と、それが乾き、べたべたとしている今のこの不快感から、夢だとは思えない。夢であってくれたら嬉しいのだが……と、千草は小さく、苦い笑みを浮かべる。
「……はぁ」
 千草はきちんと考えても『かえるをひいたら人間になった』というその答えに、思わず瞳を閉じ、肘をついた腕に頭を寄せ、ため息をついてしまう。そしてまたゆっくりと、視線を黒板へと戻す。
「っ……!」
 しかしその瞬間、千草は瞳を見開き、叫び声を上げそうになった。
 黒板に戻そうとした視界の隅に、半分開けている教室の扉の向こうを、ぺったぺったと音を立てて歩いて行くある後姿を見つけたのだ。それは紛れもなく、さっき自分が逃げ出した、あの人物……かえる男の後姿だった。
(な、何で……)
 そのまま直進していく後姿を見つめ、千草が硬直していると、黒板を向いていた教師が、ペタペタというサンダル特有の響く足音に気付き、顔を向けようとした。
「せ、先生!」
 千草はとっさに叫ぶ。
「ん? 何だ竹下」
 声をかけられ、廊下の方を見ようとしていたが、千草に顔を向ける教師。
「あ、あの……」
 千草は言葉に詰まった。
 そもそもなぜ、あいつをかくまわなくてはいけないのか。千草はそう思ったが、あいつが捕まり、もし千草の名を口にしたら……千草も巻き込まれ面倒である。
「えっと……あの、具合が悪くて……来たばっかりなんですけど、帰っても良いですか?」
 辛そうな表情でお腹を押さえるという、典型的な演技をしながら、千草はとっさの嘘をつく。
「ん〜? 来たばっかなのにもったいないぞ、この時間だけでもいられないか?」
 嘘を見破っているのか、いないのか。教師はそう返す。
(いいじゃない! どうせあたし漢字間違いだけなんだから!)
 千草は、あ〜……と次の言葉を探しつつ、心の中で悪態をついた。
「んー、まぁ、お前はケアレスミスで補習だしな。じゃあこのプリント、明日までにやってこいよ」
 そう言いながら教師は、最後の方で配る予定のプリントを教壇から千草に一枚差し出す。
「ありがとうございます……」
 千草は助かった! と、融通のきく教師に、今度は心の中で感謝して、それを取りに行き軽く頭を下げ、仮病だと怪しまれない出来る限りの速さで荷物をまとめると、教室を後にした。

 教室から離れると、足音を立てない様に急ぎ足であのかえる男を探す。先程、歩いて行った方向に向かい、きょろきょろと廊下の先や、廊下の窓から見える場所を探していると――
(いたっ!)
 丸く白い半透明の連なった髪ゴムで、後ろに短く髪をまとめているあのかえる男の後姿を見つけた。男は、体育館へと続く渡り廊下を歩いていた。
 千草は急いで階段を下り、自分も渡り廊下へと向かう。そして渡り廊下へと出ると、体育館の入り口で、中を見つめているあの男を見つけた。
「ちょっと! あんた!」
 千草は駆け寄り、小声で叫びながらかえる男の腕をつかんだ。
「あ! やっと見つけた!」
 二の腕をつかまれ、はっと振り向いたかえる男は、やはり登校中にかえるから変身した、あの男だった。
 男は千草を見ると、見つけた! と、少し嬉しそうに叫ぶ。
「あっ、しーっ! ちょっと来て!」
 体育館の中で部活動中の生徒の目を気にして、千草は慌てて男の腕をつかんだまま、こっち! と歩き出した。

「おー、ここ日陰でじめじめしてて、ちょうど良いな」
 体育館の近くにある、屋外プールと体育館の間の人気のない日陰で、男は千草に放された腕を腰に当て、辺りを見渡している。
(かえるっぽいこと言わないでよ……)
 鞄の取っ手を握り、その男を前にしている千草には、その発言にも認めがたい事実を突きつけられている様な気がして、心中、穏やかではなかった。しかし、一つ息をつくと、千草は話を切り出す。
「ねぇ、あんた……やっぱりさっきの……かえるなの?」
 自分でもこんな質問をしていてどうかと思う。
「あ! やっぱ分かってたんじゃねぇか! ひき逃げしやがって!」
 男は少し眉を上げ、むっとして即座に言葉を返した。
「かえるがいきなり人間になったら、誰だって驚いて逃げるわよ!」
「……驚いて逃げ出したやつはいたが、ひいたあとまた突き飛ばして逃げたのはお前がはじめてだ」
 反論した千草に、男は胸の前で腕組みをしつつ、じとっと千草を見つめた。
「……悪かったわよ」
 確かにそれは悪かったと非を認め、千草は気まずさに視線をそらして謝る。しかしふと、その言葉にある疑問を抱き、今は人になっているかえる……かえる男に視線を戻した。
「あたし以外にも……あんたをひいて人間にしちゃった人、いるんだ」
 そう、男の言葉からは、他にも自分と同じ事をしてしまった人がいる事が伺えた。
「あ? あ〜まぁ、五十年に一回位は、俺も気ぃ抜いてひかれるから、五、六人だけだけどな」
 腕を組んだまま瞳だけを斜め上に向け、記憶を探りながらかえる男は答える。
「……は? ちょっと待って……あんた一体、何年生きてんの?」
 しかしその答えは更なる疑問を生んだ。千草は眉間に皺を寄せ、かえる男を訝しげな目で見る。
「ん? 三百年位?」
 さらりと答えるかえる男。
「…………」
 そんなかえる男とは対照的に、千草は眉間に皺を寄せ、唖然とする。
「さ、三百年って……あんた……妖怪?」
 予想外のその数字に、口を閉ざしていた千草は、ようやく言葉を絞り出した。
「まぁ……そんなもんかな」
 後頭部をかきながら、なんでもない事かの様に答えるかえる男に、千草は心の中でつぶやく。
(何よそれ……何であたしがそんな滅多にないもんに出会わなきゃいけないのよ……)
 かえる男が妖怪の類だという事に恐怖を感じる事よりも、この偶然の出会いにふつふつと怒りを抱き始めたのは、千草の持つ強気な性格のせいだろう。
「んでさ、そんな事はどうでもいいんだけど、ひいた責任取って貰おうと思って」
 かえる男が話を切り出したその言葉に、一瞬、千草はこいつを殴りたい……と思いつつも、その欲求を抑え込んだ。
「責任……って、何?」
 その重い単語に、長身なかえる男の顔を下から覗き込むように伺う千草。一体何を要求されるのかと、千草が身構えていると、
「お前にひかれて人間になっちまったから、キスして戻してくれ」
「…………」
 口が思わず半開きになり、ぽかんとした表情で千草は黙り込む。
「はぁ? な、何、言ってんの!」
 そして言葉に詰まりながら、半歩、後退る。
「何って……戻る方法がそれしかねぇんだから、しょうがねぇだろ。今までもそうして貰ってきたし」
「そんな事……言われても……」
 千草は戸惑いながら顔を背ける。
「俺、結構良い顔してると思うんだけど。抵抗ある?」
 思い上がりや、わざとらしさを感じさせずに、さらりとかえる男は言い、自分で言うなよ……と、千草は思いつつも、それは事実で、少し長めの前髪の下にある、二重だけれど大きすぎず落ち着いた印象のある瞳に、すっと通った鼻筋、健康的な色の唇を持ったかえる男は、人間の年齢で言えば、二十三、四歳の、誰もが目を止める様な整った顔立ちをしていた。
「抵抗っていうか……そうじゃなくて……!」
 さっきはじめて会った人になんて、出来るわけがないだろうと千草は思いながら、しどろもどろに答えると、かえる男はそんな千草に痺れを切らした。
「何だよ! はっきり言えよ!」
 その偉そうな態度に、暑い上に朝からかえる男の厄介ごとに巻き込まれてイライラしていた千草は怒りを爆発させる。
「うるさいわねぇ! 人に頼むのに何よその態度!」
 日陰でも暑く、じめじめ感の加わった不快指数の高い場所で、ぎゃあぎゃあと言い合う二人にストップをかけるかのように、チャイムが校内中に響いた。
 千草は言葉を止め、不機嫌そうな顔を背後へと向ける。
「とりあえず、学校出るわよ!」
 他の生徒や教師に見つかるのを恐れ、機嫌悪く千草は言いながら、かえる男の手首をつかんだ。
 人気のない所を選び、かえる男を校門の外まで連れ出すと、千草は急いで自転車を取りに戻り、そしてまた校門まで戻ってきた。

              三
「あちぃな〜……干乾びる……」
「ほんとにね……」
 夏らしい、雲のない澄み渡る青い空に、放射線状に線を描きながらギラギラと光る太陽の下を、二人は歩き出した。
「んで? どこ行くの?」
 カラカラと自転車を引く千草の後に続き、ぺったぺったとサンダルの音を立てながら歩くかえる男は、照り返すアスファルトの眩しさに、目を細める。
「近くに神社あったから、そこ。人いないだろうし、木がたくさんあったから、涼しいと思って」
「あー、あそこか」
「知ってんだ」
 二人は近くの神社へと向かうべく、学校の前を走るここらでは車のよく通る二車線の道から、田んぼの中にある細い一車線の道へと足を進める。
「当たり前だろ。この辺りに三百年も住んでりゃ、知らねぇとこなんてねぇよ」
 何気なく足元の田んぼの中を見て、歩きながらつぶやくように言うかえる男。
 その言葉と、その自然な仕草に、不思議と千草はこのかえる男が嘘をついていなく、本当に三百年も生きているかえるの妖怪なのだと、徐々に実感してきた。
「あー! 暑い! おい! 俺がこぐから、自転車二人乗りしてさっさと神社に行くぞ!」
 突然そう叫びながら、かえる男は田んぼに向けていた顔を千草に向ける。
「えっ……てか、あんた自転車乗った事あるの?」
 横顔を見つめていた千草は、一瞬、動揺しつつも疑問をぶつける。
「……乗ってるやつらを何十年も見てきたから、多分大丈夫だ。任せろ。」
「嫌すぎる……」
 かえる男はしばらく黙った後、真面目な顔でそう言ったが、千草は口を引きつらせながら、顔ごと視線をそらした。
「いいから貸せって! 三百年生きてる俺にできない事はねぇ!」
 かえる男はそう言いながら千草からハンドルを奪う。どんな理屈だ……と思いながらも、暑くて争う気力もなく、はじめて自転車に乗る事に嬉しそうな表情のかえる男を見て、千草はため息をつくと、そのまま自転車をかえる男に渡した。

 千草の身長に合わせている自転車は、かえる男が座ると、足が余ってしまい、不恰好だった。けれどサドルを調節するのはこの暑い中では億劫だったので、千草は調節出来る事は黙っていた。それにかえる男の足がこれだけ余っていれば倒れそうになっても、すぐに足がつき、横転する可能性はないだろうという思いもあった。
「おっし! 後ろ乗れ!」
 サドルに座り、千草から簡単な説明を受けた後、かえる男は心の準備が整ったのか、千草にそう声をかける。
 倒れそうになったらすぐ足をついてと、何度も言っておいたが、千草は不安を抱えつつ、後ろの荷台に横向きに座った。そしてかえる男の白いTシャツを、一瞬、ためらいながらも、ぎゅっと握る。
「しっかり掴まってろよー! いくぞー! ……よっ!」
 そしてかえる男はペダルにかけた足を、ぐっと踏み込んだ。
「うお! 動いた! うおぉ……!」
 自転車が走り出し、嬉しそうな声を上げるかえる男。しかし、自転車はふらふらとしていて、いつ倒れるか、千草は気が気ではなかったが、不安をよそに、自転車は徐々に安定し、快調に走り出した。さすが、三百年生きている妖怪……と、千草は関心する。
「あはは! すげー! 楽しいー!」
 さっきと同じ、うだる様な暑さの中だが、自転車で走り、風を受けているせいか、二人はいくぶん涼しく感じていた。
「と、飛ばしすぎ! 仲間のかえるが出てきたら踏み潰すよ!」
 楽しそうな声を上げ、ペダルを踏み、どんどん加速していくかえる男の後ろに座っている千草は、乗り慣れない荷台に乗っているせいか、不安定な自転車に倒れることを恐れ、かえる男に注意を促す。
「あ、そっか。あいつらはひいたら死んじまうもんな、気をつけねぇと」
 かえる男は千草の何の気なしに言った言葉に、足を緩め、スピードを落とした。
「…………」
 かえる男の、後ろで一つにまとめられた長さが不揃いの、艶やかな黒髪を見上げ、千草はふと思う。
 妖怪のかえるは、もしやこのかえる男だけなのだろうか。もしそうならば、このかえる男は三百年もの間、一人で変わってゆくこの町並みを見続け、そして数え切れないほどの仲間達を迎えては、見送ってきたのだろうか……。
 自分が見送られる事はなく、毎回、相手を見送っていく。もし自分が同じ立場だったら……千草はあまり豊かではない想像力を使い、考える。
 次々にいなくなっていく周りのかえるや動物達、しかし自分だけは生き続ける。新しい仲間と出会っても、その仲間はまた、帰らぬ人……ではないがすぐにいなくなってしまう。
 かえる男の周囲はそうではなく、ただの自分の想像かも知れないが、千草は思わず涙が出そうになった。それはとても辛くて、悲しく、孤独だった。

              四
 風にゆられ、さわさわと緑の葉がこすれあう音が、日陰で涼しい境内を、より一層涼しくしている様な気がした。
「おー、涼しいなー!」
 神社についた二人は、神社の境内へと続く階段の下に自転車を止めると、石の階段を上り、殺風景だけれども、落ち着いた広い空間に出てほっと息をつく。
 ひんやりと少し冷たく、澄んでいる境内の空気は、神社特有の物だった。
 濃いめの茶色い土の地面の中央奥に、小さな色褪せた社がある。そして右側に太い幹を持つ、樹齢は見当もつかない御神木。後は水道と、よく分からない石碑が数個並んでいた。
「あー、疲れた……暑い……」
 千草はそう言いながら一番涼しそうな場所を探す。
「お、あそこ座ろうぜ」
 そう言うと、かえる男は一目散に、奥にある社へと向かっていく。千草がどこに行くのかと疑問に思っていると、かえる男は賽銭箱の後ろの社の三段の階段の一番上に座った。
「バチ当たらない?」
 千草はそう言いながらかえる男の前に立つ。
「あたんねーよ。前から座ってんもん」
 一番上が一番涼しいぞ。という声に従い、かえる男の少し離れた隣に座ると、確かにとても涼しかった。
「昔はもっと涼しかったんだけどなー……いつの間にかこんなに暑くなってたなぁ」
 少し離れた所にある、暑い太陽の日差しをさえぎり、日陰を作っている木々の葉を見上げながら、かえる男はつぶやいた。気持ちのいい風が頬をなでる。
 千草は暑さに伏せていた顔を上げ、視線を隣のかえる男へと向けた。
 空を仰ぐかえる男の横顔は、どこか遠くの空を見つめていて、瞳には儚さが漂っているように思えた。
 なんだかもやもやしてきて、千草は後ろにまとめ上げていた髪をほどき、髪を下ろすと、右手でぐしゃぐしゃと後頭部をかき混ぜる。
 そして手を止め、そのまま右肘を膝に乗せ、顔を隠すようにして、かえる男に話しかけた。
「あんたさぁ……仲間とか……いるの?」
「…………」
 かえる男は両手を後ろについて、無言で首だけを回し、隣の千草を見た。
 かえる男の視線を感じて、千草は気まずさにたえきれず、言葉を続ける。
「な、なんとなく! 三百年も生きてる妖怪かえるって、あんたしかいないのかなって……」
 困っている気持ちが、仕草に現れるかの様に、また右手でゆっくりと髪をかき混ぜている千草は、急に自分の横ぴったりと、ストンと人が座ってきたのに驚き、顔を向ける。
 そこにはいつの間にか、肩が触れる距離で、かえる男が座っていた。
「何! 近い!」
 千草は逃げようと横にずれるが、階段はそんなに広くはない。千草がずれると、かえる男もずれて、千草に近づいてきた。
「三百年生きてるかえるが、俺一人だったら……寂しいだろうなって?」
 そして、上から覆うように、顔を近づけながら怖いとも言える薄いほほえみを浮かべるかえる男に、千草は硬直したまま動けなかった。
「ち、近いー!」
 しかし、ドンッ! と千草は思いっきりかえる男の胸を突き飛ばす。
「何なのよあんた!」
 千草は立ち上がり、突き飛ばされ階段を転げ落ちそうになっているかえる男に叫んだ。
「いっ……てーな! お前は一日何回突き飛ばすんだ!」
「あんたが悪いんでしょ! 人がせっかく……!」
 片手をつき、起き上がったかえる男に、千草はたたみかける様に上から叫んだが、そこで言葉をぐっと止め、黙り込んだ。そしてまた、階段に座り込む。
「まぁ……同じかえるの仲間はいないけど、種類の違う、妖怪仲間みたいなやつらはいるから、安心しろ」
 何だか恥ずかしくて頭を抱えている千草の横に、身体を起こして、今度は少し距離を空けてかえる男は座りながら言う。
「別に何も心配してない!」
 叫びがなら赤い顔を背ける千草。
「千草はやっぱり優しいな」
 千草はその言葉にぐっと言葉をつまらせる。
「自転車で走りながら言ってる愚痴も、誰がかわいそうだとか、何でもっと穏便にとか、世の中不公平だとか……何で泣いてるのか分からなかったけど、悔しそうに泣いて、涙拭いながら走ってる時もあったよな」
 千草は耳を疑い、ゆっくりと横に座るかえる男を見ると、してやったりという笑みがそこにあった。
「なっ……なんで……」
 問い詰めたい事はたくさんあった。なぜ名前を知っているのか、しかも覚えのある愚痴。しかし、頭が上手く働かず、千草は呆然とかえる男を見つめていた。
「実際に話してみたらどんなやつなんだろうって思ってて、今日話してみたら、言葉も態度もきつくて笑えたけど、でも、やっぱり優しかった」
「…………っ」
 なぜ? 何? 何なの? と、疑問とたくさんの感情が混ざり合い、言葉が出てこない千草。そして何とか絞り出した言葉は……
「何! あんたストーカー?」
「おい!」
 それはねぇだろ! と、かえる男は叫びながら立ち上がる。
「てか、何であたしの名前知ってんのよ! キモい!」
「キモいとか言うな! お前の友達みたいなやつが、後ろから自転車で走って来て呼んでたの聞いたんだよ! だから覚えてたんだ!」
 ったく……と、つぶやきながら、かえる男は階段を下り、地面に立ち、不愉快そうに腕組みをする。
 千草がまだ、思考がまとまらず、ぐるぐると考えをめぐらせていると、今度はかえる男が少し気まずそうに顔を横へ向けつぶやく。
「あ〜……でもまぁ、ストーカーみたいなもんかもな」
「え?」
 同時にさわさわと、風に揺られた葉が、重なり合う音が境内に響く。
「わりぃ、今日ひかれたのわざと……」
 その声と共に、かえる男は千草の両脇に手をつき、挟み込むようにして、顔を近づけると……そっと千草の唇に触れた。そしてその瞬間、あの白い煙がまたもや上がった。
「…………」
 千草は呆然としながらも、ぼたっと足元に落ちた物に目を向ける。そこには、げこっと一声なく、今朝、自転車でひいたあのかえるがいた。
 千草はとっさに片足を上げ、そのまま足をかえるめがけて、ダンッ! と、思いっきり下ろした。
「こっのっ……クソガエル!」
 階段から立ち上がった千草を見て、かえるは慌ててぴょこぴょこと跳ね、一番近くの草むらへ飛び込み、姿を消した。
 千草は立ったまま、かえるが姿を消した草むらを見つめる。
 葉、一枚動く気配のないそこを見つめ、千草はぐっと下唇を噛むと、息を吸い込んだ。
「かえる男! 仕返しするんだからまた自転車の前に飛び出して来なさいよ! ひいてやるから!」
 静かな神社に響き渡る声。すると、ガサガサと草むらが揺れ、ひょこっとかえるが顔を出した。そして一言、げこっと鳴くと、かえるはまた顔を引っ込め、今度こそ、去って行った。
「バカがえる……」
 そして千草は小さくつぶやき、ほほえむのだった。











2020.09.06 再up